オーストラリア珍道中

1992年秋
旅の始まりはオンザロック
それはひょんなきっかけだった。 NHKTVで地球に最初に酸素を送り出した「藻」が西オーストラリアに現存すると言う番組だった。
「ストロマトライト」、何だか舌を噛みそうな名前、随分遠いな、1人では無理だろうと思った。
ある日、スナックで友人と酒を飲んでいた。
カラオケが無いとても良い店だった。
グラスを傾けながらふとその番組の事を話した。
突然相手が「行こうや!」と言った。
「何も無いよ!」と言うと「それがええんやない」と言う、「ガイドは無し!」と言うと「お前がいれば充分」。
おいおい、旅での英語位しか出来ないのにと思いながらも心は決まっていた。
1992年冬
旅行準備
準備と言っても真夏の国に行く訳だから短パンとTシャツが多い、これが実は後で後悔する事になる。
後は星の写真を写すカメラ・望遠レンズ・スカイメモ(コンパクトながら20分程度は星の動きに合わせて追尾出来る)・スカイメモ用三脚・カメラ三脚などを用意する。
やはり1人では持てない機材量だ、アルミトランクが2個、スーツケース、三脚ケース、双眼鏡もあるし…。
西オーストラリアは初めてなので成田発3泊4日のツアーに潜り込み中抜きをして貰った。
出発は93年1月18日、、、 レンタカーの手配を国内でする、AVISにお願いをした。
1993年1月18日〜19日
パース到着
成田発のカンタスでパースへ、成田ではパック旅行だったのでカウンターの前で他の旅行客を待った。
時間になっても我々二人以外に現れない。
なんと言う旅行の始まり、出国手続きが済んでウイスキー2本を購入、機内ではワインを飲むわ、飲むわ。
夜9時半にパース空港に到着。
二人だけなのでリムジンがお出迎え、こんな車初めて。 途中機上から見る大地は全くの暗黒で明かりが全く見えなかった。
翌日ホテルから外を見ると大きな川が見える、「これがスワン川だ!」、向こう岸が遠い。
動物園とかが有り、高層アパートが沢山見える。
午前中だけ観光ツアーがあるのでガイドさんと落ち合う、運転手さんがまぁ何とハンサムで逞しいこと。
ギリシャ系だとのこと。
モンガー湖に行きブラックスワンを見る。
スワンは白鳥だよなと思いながら日本訳を考えるが「黒い白鳥」しか浮かばす、情けない。
ハンサムさんから「明日はどうするか」と尋ねられたので「レンタカーでモンキーマイアへ」と言うと、彼は一言「OH!CRAZY!」。
そりゃそうだ、飛行機が飛んでいる距離約940kmを一日で走るのだから。
午後レンタカーを借りスーパーへ食料品やらフライパンやら買出しに行く。
1993年1月20日
いざストロマイトを求めて
午前5時半にホテルを出発する。
前日に途中で喉が渇くといけないので自動販売機用の小銭を沢山用意した。
これは結局最後まで販売機なんて物が無くて役に立たなかった。
パースを抜けて一路ブランドハイウェイを北へ(赤道へ向けて)向かう。
昨日車を借りる時にフロントのお姉さまから「すれ違う車に手を振ると良いわよ!」と言われたのを思い出した。
ご覧の通り車が見えない、パースを出てからすれ違う車が5分に1台から10分、20分、30分と間隔が延びて行く。
車が来る、手を振る、向こうも手を振るのだ、寂しいんだね、偶に通る小さな町とガソリンスタンドがひとと出会える場所だ。
ガソリンスタンドまでの距離は明示してあるが、我々は燃料計の針が半分になっても無かったら引き返そうと決めてた。
段々気温が高くなってきた、車はエスティマ(現地名タラゴ)、制限速度は110kmなのだが車が来ないので150kmは出てる(出している)。
途中明日から3泊する場所への入り口を見つけて入り込み予約をする。
ジェラルトンで昼食を取る。
街中は別だがハイウェイから街中へはロータリーで出入りするので信号が全く無い、これは便利だ。
風景の変わらない道を延々と走りオーバーランダーロードハウスから左折し、更に延々と走る。
やがて右手にストロマトライトの看板が見え、右折、途端にソロバンの上を走っているかの様な道だ。
声に自然にビブラートが掛かる。
駐車場に車を止め、降りて海岸へ向かう。
途中一組の人達とすれ違う。
暑い、蝿が凄い、粘膜と言う粘膜へ向かってくる。
クロコダイルダンディがコルクをぶら下げたハットを被っていた理由がやっと分かった。
見えて来た、潮が結構引いているのだろう、黒いストロマトライトがかなり水面に顔を覗かせていた。
1993年1月21日
モンキーマイアー
先日の夕方4時半に到着し、ビーチへ行くが水が結構冷たい。
日本人の新婚さんが一組居られた。
ここはイルカの餌付けに成功して有名になった。
この日も朝早くから観光客で海岸は一杯、いるかが2頭遊びに来てくれた。
水際に立っているのはここの監視員で、人がいるかに触ったりするのを防いでいるのだ。
砂浜ではペリカンが誰からもかまってくれず寂しそうに鳴いていた。
1993年1月21日
シェルビーチ
ここは、花びらのような小さな白い貝殻の砂浜が延々と110km以上も続いている。
凄い遠浅で行けども行けども膝まで海水に浸らないのだ。
ここは翌年もメンバーを増やして行ったが、貝殻で海中に作ったイニシャルが残っていた。
余程波が少ないのだろう。
貝殻の深さは10mにも及ぶと言う。
ここら辺りの海は塩分濃度が濃いそうだ。
1993年1月21日
驚くなって言ってもねぇ
シェルビーチからパースへ向かってひた走って、星を撮影する為に泊まるワディファームへ到着。
時刻は5時ごろで友人は食事の準備、こちらは洗濯をし物干しロープをベランダの柱に縛っていたら、背後に動物の気配が、、きっとオーナーの飼っている犬だろうと振り返ると「うわぁ〜〜〜〜」状態で室内へ逃げた。
だってワラビーが真後ろにいるんだもの。
ステーキの匂いに誘われてやって来たのだろう。 トマトをCUTして出したらぺろりと平らげた。
この方は翌日の朝6時に起こしにきてくれた。
ベランダのガラスを叩くのだ、眠らせてくれ。
1993年1月22日
ワディファーム&ワイルドファイア(野火)
">宿泊した場所は写真の様な場所でツインベッドで一部屋5,000円、因みにテント泊は1,000円。 テントの人は共同シャワーが有るし、安い旅が出来る。
ガソリンスタンドは街中以外は軽食(サンドイッチ、ハンバーガー、ホットドッグ、飲み物)が有り、勿論その場で作ってくれるのだ。
中には無料のシャワーが有るスタンドまである。
だから車での旅が簡単にできるのだろう。
朝早くからワラビーに起こされたので午前中からピナクルズへ出かけることにした。
下の写真は途中で撮影した物だが野火で焼けた木。
もっと延々と続いた場所も有った。
天気予報で野火注意報が有る位多いらしいし、遥か彼方で黒煙が上がっているのを何度も目撃した。
乾燥大陸なのだ、服装は相変わらず短パンのまま。
でも不思議な事に野火で子孫を残していく植物も有って生態系の面白さを垣間見た気がする。
ピナクルズへは約1時間の距離、道が途中から例のソロバン道路に変わる。
注意しないと簡単に車がスピンする。
実際翌年多人数で行った際に後続車がスピンして道路から落ちそうになってヒヤリとした。
1993年1月22日
ピナクルズ
まさしく「荒野の墓標」だ。
ナンバン国立公園の一角にあり、パースの北約250km。 太古の昔、海辺であったこの一角が貝が堆積し石灰岩質の土台を作り上げ、そこに深く根を張った原生林が枯れた後、大地が風化されていき根の間に残った石灰岩質がまるで塔のように残ってできたのがピナクルズだと言われている。
今も風化は進んでいて風が吹き抜けて行く音だけが聞こえる。
車の進路は写真にもあるが石が並べてあるだけ。 ここは人を静かにさせる力を持った場所ではないだろうか。
1993年1月22日
又、ワラビーが
ピナクルズから戻って来ると、女の子と父親がトラックで来てテントを張っていた。
そこへ昨日のワラビーだ、頭に傷があるのですぐに分かった、しかも今日はどうも夫婦で来ている様だ。
女の子は抱きついたり頬ずりしたりしているが、我が相棒はサンダルを脱いでサンダルで頭を撫でていた。
夕食(彼らワラビーの)はトマトスライスだが、今日は食べない、何故だ。
そうだ昨日マヨネーズ和えにしてあったので口が肥えてきたらしい。
マヨネーズ和えで出すと美味しそうに食べていた。
我々が食事を終えた頃彼女達のテントは灯が消えていた。
明日が早いのだろうか。
1993年1月23日
ワディワーム最後の日
案の定朝早くにあの親子連れは出発していた。
撮影も今夜で最後、と夕方からコテージの前で準備を始めていると今夜は5人でお越しになった。
ご夫婦とお子様達ですね。
今宵のおかずは冷凍のグリーンピースのボイルしたもの。
母親の袋から出てきて可愛いものだ。
今夜でこの真っ暗な空ともお別れだ、写真は止めて双眼鏡で思う存分見てしまう。
結局明け方の4時半まで見てしまった。
眠られずに7時半に起きて、さぁ出発だ。
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